━劇的なるものをめぐって....美輪明宏


劇的なるものをめぐって....愛の賛歌...ヨイトマケの唄...美輪明宏



-昔の新宿にはロマンがあった-
 『昭和27年ぐらいかしら、新宿駅の西口にあった小さな公園でホームレスをやってたことがあるの。駅の地下道にはまだ戦争で焼け出された人たちが住んでた。高野の裏は屋台が並んでて、紀伊國屋もなくて、その前の通りは泥道。歌舞伎町は普通の家だけだった。でも街頭のスピーカーから流行りの音楽がいつも流れててね。みんな貧乏だったけどロマンティックな時代でしたよ。ここ(スカラ座)はきれいな音楽がかかってて雰囲気があるでしょ。こういうロマンティックな雰囲気がどこに行ってもあった。銀座へアルバイトに行き始めた頃は、都電に乗らず歩いて通ったものよ。食うや食わずだったから痩せてて、ウエストなんて48センチくらいしかなくてね。三島由紀夫さんに「きみ、その中に本当に内臓が入ってるんだろうね」なんて言われましたよ。』



『20年ほど前になるけど、新宿厚生年金会館の並びのビルでクラブをやってたこともある。西口の都庁の向かいにあるマンションに住んで、そこから店に通ってた。その場所を選んだのは、私が西口でルンペンやってたあたりを見下ろせたからなの。復讐心みたいなものね。』



 -新宿に住んで「天井桟敷」に参加-
 『ヨイトマケの唄』が大ヒット(昭和40年)したのは赤坂にいた時でね。貧乏するのはもうイヤだから方位を見てもらったら、新宿がいいと。それで三光町の、今の丸井メンズ館の先のほうに住んだのよ。そのうちに寺山修司が「日本にはないアンダーグラウンド・シアター」をやりたいからと、私のために書いた『青森県のせむし男』の台本を持ってきたの。読んだら面白いし「これからはこういう時代だ」と思ってやることにしたの。友人には反対されたけど。というのも、その前は今でいうビジュアル系の元祖をやって世間からキワモノ扱いされてたのが、シンガー・ソングライターの元祖をやって『ヨイトマケの唄』がヒットして、やっとマトモだって言われるようになったから。またアングラなんかやると元に戻ったと思われるって。』



『ヨイトマケの唄』
作詞・作曲:丸山明宏 編曲:川上栄一

父ちゃんのためなら エンヤコラ 母ちゃんのためなら エンヤコラ もうひとつおまけに エンヤコラ

今日も聞こえる ヨイトマケの唄
今日も聞こえる あの子守唄
工事現場の ひるやすみ
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が

子供の頃に 小学校で ヨイトマケの子供
きたない子供と いじめぬかれて はやされて
くやし涙に くれながら 泣いて帰った 道すがら
母ちゃんの働く とこを見た 母ちゃんの働く とこを見た

姉さんかむりで 泥にまみれて 日に灼けながら 汗を流して
男にまじって 綱を引き 天にむかって声あげて
力の限りに うたってた
母ちゃんの働く とこを見た 母ちゃんの働く とこを見た

慰めてもらおう 抱いて貰おうと 息をはずませ 帰ってはきたが
母ちゃんの姿を 見たときに 泣いた涙も 忘れはて
帰っていったよ 学校へ
勉強するよと 云いながら  勉強するよと 云いながら

あれから何年たった事だろ 高校も出たし 大学も出た
今じゃ機械の世の中で おまけに僕はエンジニア
苦労 苦労で 死んでった
母ちゃん 見てくれ この姿 母ちゃん 見てくれ この姿

何度か僕も グレかけたけど やくざな道は ふまずにすんだ
どんなきれいな 唄よりも どんなきれいな 声よりも
僕をはげまし 慰めた
母ちゃんの唄こそ 世界一 母ちゃんの唄こそ 世界一

今も聞こえる ヨイトマケの唄 今も聞こえる あの子守唄
父ちゃんのためなら エンヤコラ 母ちゃんのためなら エンヤコラ もうひとつおまけに エンヤコラ



『新宿は昔から”色“と”知“を売る街だったの。宿場町の頃は色女が旅人に春を売ったし、今は歌舞伎町や赤線だった新宿2丁目がそう。そこで知的な連中とそうでない連中が隣合わせで生きてきた。”知“のほうは、芸術家が集うサロンのような場所が消えて彼らがいなくなったんだから、それを育てるようにしなきゃ。最近は渋谷がそうしようとしてるけど、新宿がしなくちゃだめ。真剣にそこを考えないと単なるゲスな歓楽街になるだけよ。新宿は、内藤新宿の昔から(街に)魅力があるからここまできたの。今だったらまだ引き返せるわ。』




昨晩、待望の美輪明宏様のコンサートへ行ってまいりました。ただいま。
会場に出向きましたら、まーおば様まみれで男性約1割といったところでしょうか。高齢のいや恒例の女子おトイレに長い行列が....。♂トイレの入り口塞いでる。あは、私もトイレ行っておきたいのにこんなんじゃ行けねえじゃねえか!ま、我慢、我慢!ここは地方田舎都市なので、PARCO劇場に棲息するようなドハデファッション様はいらっしゃらず、ちと残念!お着物様はちらほらでした。
それにしてもTVの前のお茶の間のシーンからそのまま抜け出てきたような普段着ポイ、オバンも一杯で、低音のオバン笑いが会場あちゃらこちゃらから聞こえてきて超こわい。あ~、早く電気消して、開演して。そして10分近く遅れてやっとやっと美輪様が登場!なんだ髪の毛、黒でセミロング!金色じゃなかった。おお、あれが噂のイッセイプリーツか!それにストールを羽織った装いです。色はよく見えんが黒色ラメラメしてます。なんか着ぐるみみたい?思ったより豊満です。
余裕で「白鳥麗子です」と定番のご挨拶。おお、もう貫禄が違うわァ~!さすが現代最高の女形として 妖しく美しい魅力を放つ美輪様、今の社会、文化、街などを対象にした明快で辛口なトークは絶好調!シャンソン歌手として、俳優として、また一人の自由人として華麗な活躍をつづける美輪様の波瀾万丈の半生にただ涙、涙・・・世間の常識にとらわれず、自分を信じて生きてきた人ならではの力強さに満ちてやっぱ凄ェわ!すかさずの『ヨイトマケの唄』攻撃には完全にKOされ涙ボロボロ!自分が”オバサン化”して行くのをはっきり意識しました。
 さて、2部でのハイライト「愛の賛歌」は始めにフランス語の直訳を朗読された後、フランス語で歌われました。美輪様いわく歌謡曲で歌われている「愛の賛歌」はピアフの「愛の賛歌」とは全くの別物と力説されておりました。でも私は越路吹雪さんの大ファンなのでカラオケでは越路ヴァージョンを歌い続けます。(この辺からオバサン化が始まったような気がします。)あ、美輪様は越路吹雪さんをけなしていたわけじゃなくピアフが創ったものと違う歌詞だといっているだけですよ。...暗転した舞台から美輪様のリーディングが始まりまさに劇的な「愛の賛歌」が演じられます。一度はナマで観たかったんですよ。最愛の恋人を飛行機事故で失ったピアフのエピソードを紹介したあと万感の思いを込めて歌う「愛の賛歌」は文字通り劇的で圧巻な美輪様でした。
ラスト、拍手の中美輪様ステージから客席に降りてきちゃいました!場内総立ち興奮状態!もちあっしも!通路を前からずんずん歩いていらっしゃるじゃないですか!! だんだん近づいてくる美輪様。満面の笑みをうかべて握手攻めにあってます。いいいないいいな!あっという間、扉の前で振替って盛大な拍手の中消えていきました…。



エディット・ピアフ「愛の賛歌」

「愛の賛歌」は始めにフランス語の直訳を朗読された後、フランス語で歌われました。
美輪様いわく歌謡曲で歌われている「愛の賛歌」はピアフの「愛の賛歌」とは全くの別物と力説されておりました。





『私が今まで全部手がけてきたもの。それから私のレコードに入れた全集。ヨイトマケの唄。そういうものも全部、無償の愛から発生している作品ばかりなんです。それはやっぱり愛の中では理想的な形だと思っております。
 よく、原爆の焼け跡で死体がゴロゴロ転がっていましたけどね、時々に親らしい黒焦げの死体が子供の死体の上にかぶさっているんですよ。ということは、自分は焼け死んでも子供だけは守ろうとするわけですよ。だから、美智子皇后様が新潟国体の時に、天皇様に暴漢が襲おうとした時、思わずパッと瞬間的に前へ出ようとなさったでしょ。瞬間ですよ。出来ませんよ、あれは。普通は世の奥様たちは、父ちゃん頼むよ、って、父ちゃんをパッと前にやって逃げますよ。だからああいうのが、私、一番感動するのですよ。
 私、昔ね、民放でね、家柄のいい人たちを集めたような番組があった時ね、徳川家とか色んないい家柄の人でないと社交界に入れなくて、平民なんて、という趣旨の番組だったんですが、その時私は言ったんですよね、「何が徳川家康よ」ってね。家康だって織田信長だって、「国盗りじゃないよ、縄張り争いやっているだけじゃないか」って。じゃあ、武士は何かって、用心棒でしょ。今じゃあ、電気椅子間違いなしでね、命がいくつあっても足りない連中ばかりで。恥ずかしい思いはすることはあっても、それで威張るって変じゃないの、「それの子孫だからって、何の関係もないでしょ」って言ったの。「恥を知ったらいいのよ、そんなもの」って言ったらみんな黙っちゃって。
 現在その人がどれくらいの魂が美しくて、やさしくて、思いやりがあって、清らかで、正しくて、厳しくて、強くて、温かくて、そういうものが一番素晴らしいのであって、それ以外は何にも価値がないんですよ、私に言わせれば・・・・。(話:美輪明弘) 』





サイン会、さすがになかったけど...無事、GETしました!


「父ちゃんのためなら エンヤコラ 母ちゃんのためなら エンヤコラ もうひとつおまけに エンヤコラ」

.....曲のオープニングと末尾を飾るこのリフレインが胸を打つ。





『ヨイトマケの唄 ~美輪明弘と炭鉱~』
(2003年8月2日NHK番組より)


   「苦労を重ねていた美輪さんにチャンスが訪れます。17歳にして後のシャンソン喫茶の殿堂となる銀巴里でデビュー出来ることとなったのです。美輪さんは、店にお客を呼ぶために知恵を絞りました。どうしたら人目を惹けるか。
 考えた末、当時もっとも世の中に無かった色、紫色を全身にまとってシャンソンを歌いながら銀座を練り歩くことにしました。絹のレースや柄物の婦人服地をすべて紫に染め、スーツを仕立てました。髪の毛や爪、靴下に下着まで紫色。美輪さんの作戦は当たり、銀座にきれいなお化けが出ると大評判になりました。
 その翌年、美輪さんが訳して歌ったシャンソン”メケメケ”が大ヒットします。時は神武景気。美輪さんの美貌は神武以来の美少年とうたわれ、性別を超えた華やかなスタイルで映画や舞台に引っ張りだこでした。そして、繊細な美少年を称した「シスターボーイ」という言葉が流行。美輪さんは時代のちょう児となりました。
 ところが、異常なまでに盛り上がった美輪さんの人気はわずか数年しか続きませんでした。60年に入ると、土地・株が暴落。多額の借金だけが残りました。落ちぶれたスターと呼ばれ、地方巡業の仕事ばかりとなった美輪さん。
 そんな時、ある炭鉱の町で舞台に立ちます。穴ぼこだらけの舞台に何度か細いハイヒールのかかとをめり込ませながら、あきらめ顔、ヤケッパチで歌っていたら、すぐ足元まで鈴なりになっている老若男女の顔、顔、顔の絵巻を見た時に、私は言いようのない戦りつを受けた。私は何をしているのだろう。この人たちの命を削って得た金で鼻歌を歌っているのだ。私はにわかに自分の贅沢に着飾ったクジャクのようなザマが異様な道化師のように思えた。最後まで必死に努めるのがやっとだった。
 美輪さんの胸に、小学生の頃に見た光景がよみがえりました。家族のために汗まみれになって働く母親たちの姿です。美輪さんはその想い出を曲にし、きらびやかな衣装やメイクを取り去って歌い始めました。」
(ナレーション:加賀美アナ)



丸山明宏作詞作曲の『ヨイトマケの唄』の強烈なメッセージはある種の人々には、見なくても良いものを見てしまった。知らなくてもいいことを知ってしまった。...というおぞましさの様なものを感じるかと思います。
『ヨイトマケの唄』は昭和40年にヒット、しかしこの歌はNHKでは放送禁止でしたね。日雇い人夫のことを歌った差別の歌であるという理由で。私は、子供の頃この唄を歌う丸山明宏の姿を見た時、その異様な存在感に圧倒的なパワーを感じ、人の魂を打つ真の表現力に感動し、すごい衝撃を受けたのを鮮明に覚えています。私には人生初めての不可思議な衝撃だったと思います。この不思議な感覚はずっと忘れがたく澱のように心の底に残り、脳裏に浮かぶことがしばしありました。神代辰巳の最高傑作!「青春の蹉跌」(1974年/原作:石川達三)で萩原健一の投げやりさと全編にわたる「えんや~とっと・・・」という口癖に通底するものを感じ、同時代的な「痛さ」を体感しました。60年代の「ヨイトマケの唄」に見事にオーバーラップしてました。学生運動の衰退から、社会変革を夢見た熱が急激に冷めていき、行き詰まりを感じ始めた70年代の空気が詰まっていて、なんとも切ない気持ちになります。


アヴァンギャルド、アンダーグラウンド、ユニ・セックス……さまざまな形容をされた美輪さん...私は長ずるに連れて多くの異端のアーティスト達に憧憬を持ち、彼らの作品を蒐集し続け今に至っております。その原点に丸山明宏という異形の天才の姿があり心に焼き付いていることにやっと気づきました。今なお、聴くものの魂を揺さぶるうた、声、詩の世界を持つ美輪明宏の『ヨイトマケの唄』は本当に奇跡のような唄だと、私は思っています。はたして私たちはこの唄を、歌い継いでゆけるのでしょうか...。


桑田佳祐「TOP OF THE POPS」


桑田佳祐さんが「桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング」としてこの曲をあげているということを友達に教えてもらいました。
下記に、桑田佳祐さんの言葉を引用させていただきました。

「エイズのコンサートで「ヨイトマケの唄」を歌ったんだ。
10年前だったら“かあちゃん見てくれこの姿”って歌詞に、“ケッ!”と思ったと思う。
そんなクサイ言葉、歌えなかった。でも、今は何でもありなんだよね。
きれいな言葉じゃなくても文脈の中で受け取ってもらえる。
世紀末なのかわかんないけど、演歌からラップまで音楽の範囲があるとして、
その辺がどうブレンドされても受け手側の許容キャパは広がっている。
だったら俺もやってみようかなと思った。」(94年)

「....「ヨイトマケの唄」を歌ってみて、あそこにいた人たちも、ああいう歌は初めて聴いたんだと思う。でも、あれを歌ったことで、お客さんとの距離がぐっと縮まった気がしたんです。なんていうか、こたつを挟んで向こうとこちらにいる、みたいな、そういう距離になれた。最近、忘れていたことなんです。唄の好きなサルの私が、ギター一本持って、こたつの向こうの友達に歌う。その時の説得力、久しぶりに思い出したんです。」(94年)





歌謡史の中で、ジャンル分けなど意味をなさない、どのような流れの中にも位置づけられないような、唯一無二の歌が「ヨイトマケの唄」です。岡林信康さんの「手紙」や、「チューリップのアップリケ」も、赤い鳥の「竹田の子守唄」もある程度の年代の方であったらご存知かと思いますが、部落差別をテーマとした歌です。「暗黙の規約」という放送する側の自主規制の中で消えていってしまった歌です。私には、何とか機会を見つけて聴いていただきたい、としか言えません。幸いにもCDとして発売はされております。何れも入手可能です。

お勧めは、美輪明宏最高傑作!




『白呪(びゃくじゅ)』

・祖国と女達(従軍慰安婦の唄)
・悪魔
・ボタ山の星
・ヨイトマケの唄
・亡霊達の行進
・陽はまた昇る
・別れの子守唄
・妾のジゴロ
・あたしはドジな女
・さいはての海に唄う

発売日:2000.05.17

発売元:KIVA
税込定価:3000円



岡林信康『狂い咲き』



「手紙」 「チューリップのアップリケ」



藤田 正 (著)『竹田の子守唄―名曲に隠された真実』解放出版社

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